Interview

施術整体師でもあり作家でもある齊藤仁重さんに、私の人生についてインタビューいただき、まるで小説のような素晴らしいストーリーを作っていただきました。私の表現(音楽&アート)に対する想いをまっすぐ書いてくださり、感動で涙が溢れました。
ぜひご覧いただけたら幸いです。▼

インタビュアー・齊藤仁重さん

『真夏の果実』
私が初めて天野真喜さんの歌を聞いたのはYouTubeだった。
サザンオールスターズの「真夏の果実」をカヴァーしている動画である。
私はサザンオールスターズの楽曲の中で「真夏の果実」が1番好きだ。
女性である天野さんが歌う「真夏の果実」。
楽しみだった。

動画が始まる。
天野さんの隣で、夫でもある音楽プロデューサーの曽根裕貴さんがアコースティックギターを弾いていた。
歌の出だし、クリアなハイボイスに若干のハスキーさが加わった声が心地よく響き始めた。
綺麗な声だと思った。
しかし、そんなことを感じていた次の瞬間にはこの声の印象が消えていった。
そして、天野さんの存在も消えていった。

何もかもが消えていった世界の中で、この歌詞がそのまま映写機のように映画を映し出していく。
ふっと、脳裏に蘇るあの時。
昔、私が想っていた女性がそこにいた。
まるでタイムスリップしたかのように、あの時の気持ちを思い出した。
涙が、溢れそうになった。

歌を聴いて泣きそうになるのは、綺麗な声に感動するからではない。
歌詞やメロディに感情移入するからでもない。
歌を通して、実体験の中にあるその時の心の奥底に触れるからこそ、心が大きく揺さぶられるのではないだろうか。

天野さんが歌う「真夏の果実」は、私を過去へと誘っていった。
そして想っていたあの人の姿を、あの時の気持ちをありありと思い出させた。

天野さんには歌を超えた力がある。
そんなことを感じていた。

『ニューヨーク』
天野真喜さんは千葉県で生まれ、そこから1〜2年で東京に引っ越しをした。
父親が航空会社の総合職として働いていたから、幼い頃から引っ越しが多かったのだ。
父親は独身時代から各地を転々としていて、海外にも行っていた。
そして、CAをしていた母親と社内恋愛の末に結婚。
その後、2人の女の子を授かった。
次女である天野さんが誕生してから3年後、父親の念願であったニューヨークへの転勤が実現することになる。
天野さんは3歳から小学校2年生までをニューヨークで過ごした。
そして、このニューヨークでの年月がアーティストとしての天野さんの原点になっていくのである。

父親は昔から音楽が大好きで、大学時代にはフォークソングサークルに入っていたほどであった。
父親の影響で姉も音楽が好きになり、家族みんなでカントリーミュージックのライブや、本場ニューヨークのミュージカルの観劇に出かけるようになっていった。
その中でも、テネシーにあるナッシュビルに家族でカントリーミュージックを聴きに行ったことは今でも鮮明に覚えている。
このナッシュビルはカントリーの聖地とも呼ばれる場所で、ここでカントリーミュージックに魅せられたことが、のちの天野さんの人生に多大なる影響を与えていくのだ。
今でも、この頃に聴いたベット・ミドラーやシンディー・ローパーへの憧れの気持ちを忘れていない。
天野さんのYouTube「ふわふわまきちゃんねる」には、彼女たちへの思いを語って、楽曲をカヴァーしている動画もあるからそちらもご覧いただきたい。
ベット・ミドラーについて語った回で流れた、天野さんが歌う「The Rose」を聴いた時は感動して泣きそうになった。
このニューヨークで幼少期に体感したミュージカル、カントリーミュージック、アメリカンポップスが、天野さんの音楽のルーツになっているのである。

『絵を描く才能』
小学校2年生の時に家族で日本に戻り、名古屋での生活が始まった。
そして、小学校卒業前の6年生の時にはマレーシアへと引っ越すことになる。
このマレーシアで3年間を過ごして、高校に入る時には千葉県浦安市へと移っていった。
今までは父親の転勤であちこちに行っていたが、この千葉県を最後にもう引っ越すことはなくなった。

天野さんはニューヨークに移り住んだ3歳の時から、ずっと絵を描いていた。
この当時はユニコーンやプリンセスの絵を描いていたが、子供とはいえ突出した絵を描いていたことに間違いはない。
我が娘の才能を見抜いていた父親が、デザインコースのある高校を見つけてくれたのだ。
天野さんはこの高校に進学することを決めたのだが、このデザインコースでかけがえのない出会いを果たすことになる。
恩師、岡田真宏先生との出会いだ。
岡田先生は絵のことだけではなく、宇宙と人間・宇宙とアートとの繋がり、自然の摂理、教科書に書いていない歴史、そして相対性理論などについても教えてくださった。
宇宙のリズムと、自分のリズム。
音楽の世界に入った今でも、岡田先生から教わったことをたびたび思い返している。
天野さんにとって岡田先生は恩師と呼ぶに相応しい存在であり、今でも尊敬の気持ちは変わっていない。
この高校生活の中で本格的に絵を描き続けていったことで、絵の才能が大きく開花していった。

取材時に天野さんの描いた絵を拝見させてもらったのだが、これがスゴかった。
天野さんには間違いなく絵を描く才能がある。
絵を見た瞬間、圧倒されるものがあった。
YouTube「ふわふわまきちゃんねる」でも天野さんの描いた絵を見られるから、まだご覧になったことがない方には、是非ご覧になっていただきたいと思う。

高校を卒業後、多摩美術大学へと進学。
大学では映像制作やインタラクティブアート、WEBデザインなどについて学んでいた。
意外なことに、大学時代ではあまり絵を描くことはなかったのだ。

『アパレルの会社へ就職』
高校時代はアート、大学時代は映像制作やインタラクティブアートを学んできたが、これを職業にするということの難しさも感じ始めていた。
大学卒業後、アートの夢は追わずにアパレルの会社に就職をした。
洋服が好きだったから、それでアパレルの会社を選んだのだ。
入社後、大学時代に学んできたことを生かして仕事をしたいと思っていたから、ディスプレイなどを活用した販売促進の部署への配属を希望していたが実際には叶わなかった。
配属先はネットショッピング新規事業部。
当時はネットショッピングが始まったばかりの頃で、事務、倉庫での検品・梱包作業、お客様とのメール・電話対応、洋服の写真撮影のアシスタント、営業、この部署では何でもこなしていた。
日々の売り上げを表にして、そこから売れ筋の商品をブランド事業部に伝達して入荷のお願いをすることもあった。
この頃は「美術大学を出た自分にネットショッピングの運営などわかるわけがないだろう」と思っていたが、今になって考えてみるとすごく良い経験ができたと思っている。
アーティストになった今、自分のグッズを自ら梱包したり、お客さまの対応をしたりすることもあるのだが、この頃の経験が今になって生きている。

ただ、あの当時は会社に慣れていくにつれ、会社に通勤するという生活自体に疑問を感じるようになっていたのも事実。
毎日同じ場所に行き、同じ人に会う。
この単調な生活が自分には合わないのではないか。
もっと自分を生かせる世界があるはずだ。
何か自分を表現してみたい。
そんなことを思っていた。

 『ボーカルスクール』
何となく続けていた会社員生活の中で転機が訪れる。
25歳の時、同じ部署の同僚と話していた時にこんな話題が出た。
「以前、私はボーカルスクールに勤めていたんですよ」
この同僚はこの会社で働く前に、ボーカルスクールで働いていたのだという。
しかも、このスクールの先生は音楽の世界で大きな実績を持っている人物らしい。

この話が妙に心に残った。
そして、この先生とボーカルスクールのことが頭から離れなくなった。
昔から天野さんは声が綺麗だと言われていた。
しかし、歌になると、綺麗な声では歌えるが正確に音程をとるということができずにいた。
「自分も歌を学んでみたい」
今になって振り返ってみると、ここで歌の世界へと導かれる流れが生まれていたのかもしれないなと思う。

ボーカルスクールに入会した。
いよいよ、ここから本格的な歌の勉強が始まっていくのである。

『エネルギー』
幼い頃から、天野さんは自分の中に特別な力があることを感じていた。
それは天野さんが歌う時の声であったり、描く絵であったり、ここに宿っている力である。
いや、まだまだこの力のすべてを発揮できているとは思っていない。
心の中では、他にもこの力を宿せるものがあるという可能性を感じている。

きっとこれは、歌声や絵だけに収まりきることのできない大きな力なのだと思う。

昔から、この力が大きくなりすぎて自分でもどうすればいいのかわからなくなることがあった。
言葉ではうまく説明ができないが、自分の中にあるこの溢れんばかりのエネルギーをどう使ったらいいのか。
ずっと、この方法が知りたかった。
なぜなら、このエネルギーのせいで苦しいとさえ思うことがあったからだ。
救いを求めて、自己啓発本などを読み漁った。
良いとされていることは何でも実践してみた。
瞑想にもチャレンジしてみた。
内側にあるモヤモヤを、どうにかしてスッキリさせたい。
自分は何のために生まれてきたのか。
自分の使命は何なのか。
心のどこかで、ずっとこの答えを探していたのかもしれない。

『歌の世界へと導かれる』
会社員をしていた頃、イメージしたことは叶うということをいくつも体験していた。
不思議なことに、イメージしたことが何度も現実化していったのだ。
入社当初は希望していた部署には配属されなかったが、そこから3~4年後には自分が希望していた部署で仕事ができるようになっていた。
そして、音楽を続ける上で追い風となる出来事も現実化していくことになる。
歌の勉強を言い訳にせず会社での仕事も一生懸命やっていたら、いつの間にか定時で帰ることのできる部署へと異動になっていたのだ。
今になって思う。
やはり、自分は歌の世界へと導かれていたのだと。

会社員を続けながら、歌の活動に本腰を入れていった。
そして、初めて所属することになる事務所との出会いがやってくることになるのである。

『初めてのライブ』
事務所に所属することになった。
そして、ここから事務所所属のアーティストとして本格的な活動を始めていくことになる。
ある時、事務所から大きな会場でのライブを打診された。
新曲発表ライブである。
中野ZEROホールで10組弱のアーティストと共演することになった。
天野さんの持ち時間は40分。
前売り3500円、当日4000円、100名がノルマだと言われた。
これは、初めての大舞台だった。
ちょうど会社を辞めるタイミングだったこともあって、直接人に頭を下げたり、丁寧にメールを送ったりして、合計で90名の方にチケットを買っていただくことができた。
初めての大きなライブで、たった1人のアーティストが90枚のチケットを捌いてしまうなんてスゴイとしか言いようがない。

この後に、もう1つ大きな会場でのライブを打診されることになった。
ファーストアルバムのリリースを記念したコンサートである。
詳細を聞いたら、これはプラネタリウムでコンサートを開催するという企画なのだという。
これには2部入れ替え制で合計160席を埋めなくてはならないという条件があった。
さすがにソロライブで160席を埋めるということには気が引けてしまい、ゲストを1部2部と各一名ずつ(合計二名)のアーティストさんにお願いをした。
1部51名、2部78名、招待客7名も入れて、天野さんが声をかけた136名の方たちが会場に足を運んでくださった。
そこから定期的にプラネタリウムソロコンサートを開催するようになり、1部公演のみ(80名)の時はソールドアウト。
2部公演の時もほぼ満員(160名弱)という形で続くようになっていく。
正直、集客には苦労をしているが、こうやってたくさんの方たちが来場してくださることには感謝の気持ちしかない。

話は多少前後するが、ファーストアルバムの制作に入った時のことを少し書こうと思う。
アルバムを制作するに当たって1人の音楽プロデューサーを紹介された。
それが、のちに夫となる曽根裕貴さんだったのだ。
天野さんが歌を作り、曽根さんがプロデュースしていく。
ここから二人三脚での音楽活動が始まっていくのである。

『不当解雇』
勤めていた会社に大きな変化が起こった。
一部上場の企業同士で合併することになったのだ。
これによって、天野さんがいた会社はアパレル界では非常に大きな存在となった。
そして、ここで予想もしていなかった出来事が起こることになる。
新しく上司となった人間からいきなり「天野さん、2月からあなたの居場所はないんですよ」と言われた。
今でも、この時の声をハッキリと覚えている。

この時の経緯を詳しく説明しよう。
会社側は、今回の件に関して上長たちに「社員に選択肢を与えてください」と指示していたにも関わらず、この新しい上司だけが会社側の意向を無視して一方的に解雇通告をしてきたのである。
その後、この一件が問題になって、改めて上司と話し合いを行ったのだが、上司はずっと「そんな言い方はしていない」と否定し続けてきた。
しかし、同じ仕打ちを受けた先輩が最後まで戦ってくださったおかげで、労働基準監督署で会社側から謝罪してもらったことを覚えている。
こういう結果を得ることができたのも、先輩が泣き寝入りをせずに最後まで戦ってくださったことがすべてなのだ。
今でも、先輩には感謝している。

ただ、この件に関しては、天野さんの中では不思議と腹が立たなかった。
この時、心のどこかにはこんな思いがあった。
「これで会社を自然な形で辞められる。やはり自分は歌の世界に導かれているのではないだろうか」

自分の直感を信じることにした。
このタイミングで会社を辞め、半年間は失業保険をもらいながら歌に打ち込んでいった。
そして、その後は派遣社員として事務の仕事などをこなしながら歌を続けていくのである。

『交際』
曽根さんと出会ってから交際に発展するまでには1年ほどの時間がかかった。
初めてのレコーディングの時、曽根さんとのやりとりの中で何とも言えない心地よさを感じ始めていた。
1つの楽曲を作り上げていく中で、曽根裕貴さんという人間の優しさを少しずつ感じとっていったのだ。
そして、気がついた頃には惹かれていた。
しかし、自分から想いを告げられるほどの勇気があるわけでもなく、そこから何となく時間だけが過ぎていった。
ただ、今になってみると、この時期には曽根さんという男性をじっくりと見定めていたのかもしれないなと思う。
過去の恋愛においてトラウマになる経験を持っていたから、男性に対しては慎重だったのだ。

出会ってから1年ほどの時間が経ったある時、曽根さんと2人きりになることがあった。
そして、自然な流れでデートをすることになった。
これが交際へと発展していくキッカケになったのである。

セカンドアルバムには、曽根さんを想いながら描いた曲が並んでいる。
交際する前、距離が近づいた時、そして交際が始まった時。
その時その時の自分の心がそのまま歌に込められている。
セカンドアルバムの曲を時系列で並べてみると、2人の関係が作り出してきたドラマを感じることができると思う。

『曽根裕貴さんと結婚』
4枚目のアルバムを制作する前には、所属していた事務所を卒業しようと思っていた。
大学時代からデザインや映像編集なども経験してきているから、コンサートのフライヤーや簡単なYouTube動画なども自分で制作することができるようになっていたということもある。
ライブの集客も自分でやっていたし、それなら事務所から独立しても1人でやっていけるのではないかと。
そして、何よりいつも隣にいてくれる曽根さんの存在が大きかったから。

曽根裕貴さんと結婚。
この後、4枚目となるアルバムを発表した。
現在は曽根さんの会社「SONE MUSIC(ソーン ミュージック)」にプロデュースしてもらいながら、ソロのアーティストとして活動を続けている。

『2人で1つの魂』
天野さんの歌のテーマは「愛と平和」なのだそうだ。
今までに様々な国に行き、様々な職業の人たちと出会ってきた。
そして、ありがたいことにたくさんの人たちから良くしてもらうことができてきた。
だから、今度は自分がそれを返していきたい。
アーティストとしての活動を通して、世界中の人たちに愛と平和を届けていきたい。

ここで私はある人物のことを思い出していた。
曽根裕貴さんである。
私は以前、曽根さんの取材をさせていただいたことがある。
天野さんのこの話を聞いていた時、私の脳裏には曽根さんが音楽に対しての思いを語っている場面がフラッシュバックしていた。
そして、その姿が目の前で話をしている天野さんと重なっていったのだ。

この夫婦は心の奥底で共鳴している。
だからこそ、2人は自然と惹かれ合ったのではないだろうか。
この魂は2人で1つなのだ。
心の奥底から響き合いながら、互いにリスペクトして音楽を作っている。
2人の取材を通して、そんなことを感じていた。

『最後に』
この取材はLINEのビデオ通話を通して行われた。
私のスマホの画面の中に天野真喜さんが映っていた。
そして、その隣にはこの取材を見守る曽根裕貴さんの姿があった。

取材中、曽根さんは夫として、音楽プロデューサーとして、時には父親のようにして天野さんのサポートをしていた。

天野さんは少女のようなオーラを輝かせながらご自身のストーリーを語ってくれた。
いや、少女のようなではない、少女そのもののオーラを輝かせながら。

幼い頃の感性と、無邪気な思い。
大人になるにつれて失われていってしまうかけがえのない輝きを、天野さんは大人になった今でもずっと持ち続けている。
実は、幼い頃から特別な感性を持っていたからイジメられていたこともあったのだ。
それでも、この感性が輝きを失うことはなかった。
特別な輝きを放つ、あまりにもピュアなこの感性は何にも代えることのできない宝物なのではないだろうか。
そして、だからこそ、神様がこの宝物を護ってくださったのかもしれない。

現代社会の中ではどこかで何かを疑い、ある程度の警戒心を持たなくては生きていけない。
でも、そんな社会の中でも、幼い子供を見ている時だけはそんな感覚から解放してもらえる気がする。
幼い子供が見せてくれるその笑顔は、何の疑いもなく素直に受け入れることができる。
なぜなら、それはかつての自分が放っていた輝きであるのだから。

きっと、天野さんの歌に心を動かされるのは、これと同じ感覚を得られるからなのかもしれない。
天野さんは幼い子供のような真っ直ぐな心で、全身全霊を込めて歌を歌っている。
だから、その歌を聴く側は、何の疑いもなくその言葉を受け入れることができるのだ。

歌詞が真っ直ぐに心に入ってくる。
歌詞が描いている情景が心に広がってくる。
そして、どこか懐かしさを感じるあの美しい歌声が、聴く側の実体験の中にあるどこかの場面に連れていってくれる。
だからこそ、あの時の気持ちが鮮明に蘇ってきて涙が溢れそうになるのだ。

この取材に当たって、私はYouTube「ふわふわまきちゃんねる」を見た。
天野さんが自身の音楽のルーツとなるエピソードを語る場面を繰り返して見てきた。
本場ニューヨークのミュージカル、カントリーミュージック、そしてアメリカンポップス。
幼い頃、ニューヨークで自分がもらった大きな感動を、今度は自分がたくさんの人に与えていきたい。
天野さんの歌を聴いて心が躍るのは、このニューヨークに原点があるからだ。
そして、高校時代の恩師である岡田先生から教わったこと。
自分を無くして、我を消して、宇宙のリズムと一体になってリズムをとる。
天野さんが歌う「真夏の果実」を聴いた時、私の中からスッと天野さんの存在が消えていったこと。
この不思議な感覚に包まれた理由は、岡田先生の教えの中にあるのかもしれない。

『追記』
私は素敵なご縁をいただくことができて、曽根裕貴さん、天野真喜さん、このご夫婦の取材をさせていただくことができた。
お1人ずつストーリーを伺ったのだが、別々の人生だったお2人のストーリーがリンクしていく瞬間を味わった時には感動に近いものを感じた。
曽根さんはシャイで物静かに、ポツポツと言葉を発していく「陰」のタイプ。
天野さんは天真爛漫に自分をストレートに出していける「陽」のタイプ。
この陰と陽のバランスが絶妙に絡み合うことで素敵な関係を築けているのだなと、そんなことを感じていた。
改めて、曽根裕貴さん、天野真喜さんにお礼を申し上げたい。
快く取材を受けていただき、ありがとうございました。
お2人の素敵なストーリーに少しでも触れることが出来て幸せでした。
心より感謝しております。

インタビュアー・齊藤仁重さん:
おそらく日本初!?【自己啓発本】を出版した整体師
◎【プロアスリート】施術整体師(他に作家、講演会講師)◎コラム(特に格闘技・ボクシング)
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